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この連載では、キャリアを積み上げてきたARIA読者にとっても「あの人はどんなやり方で成果を出しているんだろう?」と気になりそうな方から、仕事でうまくいくコツや、失敗から学んだことを聞き出します。作曲家の梶浦由記さんは今やアニメ界に欠かせない存在ですが、もともとこの仕事を目指していたわけではありませんでした。偶然の出合いを必死でモノにしていった20~30代、そのときの気持ちを今も忘れないといいます。梶浦さんが仕事で心掛けていることについて聞きました。
(上)大ヒットアニメ『鬼滅の刃』 冒頭BGMはこう誕生した
(下)OLからバンドデビュー 無名の作曲家が築いたキャリア ←今回はココ
―― 梶浦さんが、作曲家という道に至るまでの経緯を聞かせてください。
梶浦由記さん(以下、敬称略) 1993年にバンドでデビューしましたが、2年ほどで活動休止に。そこから数年間は収入なんて全くなくて、事務所には所属させてもらっていたものの、本当ならクビになってもおかしくない状況でした。それでも、私に才能があると信じてくれた事務所の方が、大したお金にもならないような仕事でも、音楽を作る機会を用意してくれて。おかげで、2カ月に1本くらいのペースだとしても、なんとか仕事と呼べるものができていました。
そんな生活をしているうちに、少しずつサウンドトラックの仕事がもらえるようになりました。忘れられないのは、1998年に担当したゲームの音楽。普通は楽曲が買い切りになることが多かったのですが、その作品では著作権印税をつけてもらえたんです。当時は実家暮らしで、ぎりぎり生活しているような状況。さらに10代で父を亡くしていたので、進学のために借りた奨学金を返済しなければいけなかった。ゲーム音楽の印税をいただけて、奨学金を一気に返済できたときにはようやく「生きていけるかもしれない……!」と。あのときの喜びは今でも忘れられません。こうした経験もあって、仕事をいただけるありがたみに慣れてしまうことは、今でもありませんね。
OLを続けるか、音楽の道に進むか
―― バンドでデビューする前、大学を卒業してからは普通に就職されていたそうですね。それなのに音楽の道に進む選択をした理由は?
梶浦 仕事もすごく楽しかったので、職業としての作曲家になりたいとは思っていなかったんです。当時いた、音楽をしながら社会人でもあるアーティストのようになれたら、と思っていました。そんな私に、このままOLを続けるか、音楽の道に進むかという選択で大きな影響を与えたのは父の存在でした。
アニメのBGM=劇伴の作曲家として活躍する梶浦由記さん。大学卒業後は普通に就職し「職業としての作曲家になりたいとは思っていなかった」
梶浦 父は普通の社会人でしたが、私の伴奏で歌うことが大好きな人でした。私が20歳になったら、「二人でリサイタルをしよう」と約束をしていたのですが、私が20歳になる前に亡くなってしまった。約束がかなわなくなってしまったこともショックでしたし、「人生は短いんだ、人は死ぬんだ」ということが10代の私にとってはものすごく衝撃でした。この出来事がなければ、きっとOLを続けていたでしょうね。
OLと音楽との両立が難しいと分かり、どちらかを選ぶことになったとき、「人生は思ったよりも早く終わってしまう、夢はかなえようとしなければかなわない」と思い出して。そのときすでに25~26歳。本当にうまくいくとは思っていなかったですけど、たとえ路頭に迷ったとしても食い詰めたとしても、そうそうないチャンスにかけてみようと思ったんです。ダメもとで。
―― 覚悟の上で選んだ音楽の道。とはいえ苦労もあったのでは。
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肩書を失ってみて気づいたこと
梶浦 覚悟はしていたつもりでしたが、はるかに難しかったですね。私はそれまで、名前を出せばみんなが知っているような大学に通っていましたし、名刺を出せばまず受け取っていただけるような会社にいました。でも会社を辞めてから、いかに自分が大学や会社の名前に守られていたのかを思い知らされました。曲を作る人は、どんな自己紹介よりも、まず曲を作るしかありません。作曲家の名刺は曲ですから。当時はとにかく曲を提出して、それがダメなら無価値という世界でした。
―― そんな厳しい世界で、無名の作曲家が最初の一歩をどうやって踏み出せたのでしょう?
梶浦 今の時代なら動画配信などの手段がたくさんあるので、自分の名刺=曲を世に伝えやすくなりましたよね。私の時代は、レコード会社にデモテープを持ち込むしか方法がありませんでした。初めて映画の劇伴を担当できたのも、そのデモテープがきっかけ。たまたまレコード会社の企画で作ったインストゥルメンタル曲を、事務所の方がいろんなところに売り込んでくれて、それが偶然、映画監督のもとに届いて、1曲まるごと映画の長尺のシーンにそのまま使われることになったんです。そこからいきなり映画全体の劇伴を作ることになったという、今だったらありえない話ですよね。私はまだインストゥルメンタルの曲を3曲しか書いたことがありませんでしたし、劇伴の作り方も知らない。そもそも映画もテレビもアニメもほとんど見たことがなかったので、劇伴の存在すら認識していなかった頃でした。偶然ではありましたが、自分の中では大きすぎる転機でした。
小学生の頃からオペラが大好き。「作りたかった音楽はこれだ」
―― 梶浦さんは今やアニメ業界に欠かせない存在です。作曲家として、アニメ音楽に引きつけられた理由はなんだったのでしょうか?
梶浦 何本かアニメの仕事をいただくようになって、気づいたことがあったんです。小学校時代、父の仕事の関係でドイツにいたこともあり、毎月末、親が好きだったオペラを見に劇場に連れて行ってもらっていました。まだ小学2年生くらいですから、内容は理解できていなかったのですが、分からないなりにすごく感動して。緞帳(どんちょう)が上がったら、オーケストラの演奏とものすごい迫力の歌声が始まり……というオペラの大げさな世界が大好きでした。「うわー! 音の波に流される!」と感動して泣きながら見ていました。そんなオペラのような音楽を求められたのが、アニメでした。
「オペラの大げさな世界が大好きでした。『うわー! 音の波に流される!』と感動して泣きながら見ていました。そんな音楽を求められたのがアニメでした」
梶浦 現実にはありえないようなことが次々と起きたり、人が死んだり悪役が高笑いしたりするのは、アニメかハリウッド映画だけ。私が作りたかった音楽が、アニメの世界にあったというのは結構な衝撃でした。それまでは、とにかく曲を作ることに必死だったので、ちっとも冷静になれなかったんですね。でもようやく、自分がアニメ音楽を楽しいと感じる理由に気づいてからは、楽しくて楽しくて。
ただし、歌モノを作っているときから、私の音楽は王道ではないという自覚があったので、きっとチャンスがあっても3作くらいだろうなと考えました。ならばその3作は命を懸けて作ることにしました。そのときから私の音楽を気に入ってくださった真下耕一監督のおかげで、梶浦由記という名前をアニメ音楽の作曲家として認知してもらえるようになったんです。この人と巡り合わなければ……という出会いが本当にたくさんありましたね。
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「あの人のせい」にするのをやめたら生きやすくなった
―― お話を伺っていると、常に前向きで全力で生きてこられたように感じますが、長いキャリアのなかで意識して自分を変えたことはありますか?
梶浦 私、もともと根が明るいタイプではないんです。自分に対しても人に対してもものすごいマイナス思考で、何もかも悪いほうに考えがち。言いたいことがあっても黙っていて、「誰かがこう言ったから」に引きずられる生き方でした。だから何かうまくいかないことがあると「あのときこう言ったあの人のせい」にしがちだったんです。そうすると相手を恨んでしまいますよね。でもそれって、いいことが一つもないなと気づいたんです。
であれば、他人のせいにすることをやめようと。言いたいことがあったらその場でちゃんと言う。もし我慢したのなら、我慢した自分のせいだと思う。すると、いろんなことが楽になりましたね。他人を恨まないと、すごく生きやすいんです。簡単にできるものではありませんが、それでもとにかく心掛けているうちに、だんだんできるようになりました。おかげで、昔は1カ月くらいひきずっていたようなモヤモヤも、今は「はい、これは自分のせい」と思った瞬間に割り切れるようになりました。
育てるのではなく「育ってください」
―― キャリアを重ねていくと、一緒に仕事をする人が若くなっていきますよね。後進を育てる際に心掛けていることはありますか?
梶浦 私は人を育てるなんて絶対に無理なタイプ(笑)。なので、「育ってください」っていうスタンスですね。私が一緒にお仕事させていただく若い方というと、歌い手さんがほとんど。でも歌い手さんが技術を身に付けたりうまくなったりするのは、ものすごく大変なことなんです。私の一言くらいで変わるものでもありませんし、1年くらい血のにじむような努力をしなければいけないもの。どれだけ難しいことなのか分かっているので、私が育てているなんておこがましいことは言えません。
それよりは、私が言ったことでその人が変わるか変わらないかを見ています。変わる人は、次に違うことが言えるので先に進めます。変わらない人には同じことを100回言わなければいけませんが、「そういう人なんだな」と思うだけ。決して次の段階にはいけませんが、そこには良いも悪いもなくて、その人が成長するかしないかは、あくまでその人が選ぶことだと思っています。変わらない人とは、同じところで仕事をしていきますし、変わっていく人とはどんどん次の段階へ進んでいくだけです。ただ、どちらが一緒に仕事をしていて面白いかと言われたら……変わっていく人ですね。こんなに変わったのなら、私も次はこれをお願いしてみようと思えますから。
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この人生を楽しまないでどうするんだ
―― 新型コロナウイルスの影響で、さまざまなエンターテインメントが困難な状況を迎えています。改めて感じる、梶浦さんにとって作曲家という仕事とは?
梶浦 娯楽はあくまで娯楽です。そこから何を得るかは受け取る側の自由。本来は生活に必要のないものですからね。今は本当に大変な状況ですが、作る側はこういうときは粘り勝ちするしかないなと思っています。みんなが娯楽を必要としてくれるときまで待つしかないんです。そして、何かつらいことがあったときに、受け手の皆さんが「娯楽に支えられている」と感じていただけるように、心を込めて作っていかなければいけないなと思っています。
「今は本当に大変な状況ですが、みんなが娯楽を必要としてくれるときまで待つしかないんです」
梶浦 音楽を作ることを仕事にできるなんて、100回生まれ変わったとしても1回できるかどうかの確率だと思っています。競争率も高いですしね。だからこそ、この人生を楽しまないでどうするんだと。きっと天才だったら、どんなに運が悪くてもなんとかなるんでしょうけど、でも私はそうじゃない。いろんな人との出会いや運に恵まれたからこそ、ここにいることができている。だったら楽しまないと、巡り合わせてくれた方々にも申し訳ないでしょう? 楽しく生きたほうがいいなと思っています。
取材・文/実川瑞穂 写真/窪徳健作